転載記事 縄文時代の日本では平等な社会が実現していた

以下転載
縄文時代の日本では平等な社会が実現していた
 
 
 
縄文人の信仰は、一言で言えば「汎神論的アニミズム」だった。彼らは、創造主としての唯一神の他に、自分たちを含む自然界の全てにアニマ(精霊)が宿っていると信じていた。そして、その精霊を崇拝し、その精霊と共存していた。

太陽や月や星にも、大地や海洋や大気にも、山や野や川にも、森や林や一本の草木にも、沼や湖や泉にも、風や雨や雪にも、霧や霜や氷にも、台風や地震や洪水にも、そしてまた、これらの自然界の中に生きる人間を含む、あらゆる動植物から鉱物に至るまでに精霊が宿っており、その精霊の働きが大いなる調和でもって宇宙を形成していたと信じていた。

これら無数の精霊が、やがて「八百万神(やおよろずのかみ)」となる。この八百万神の間には貴賎や格差はなかった。神々はつまり平等だった。これらの神々は、縄文人の「原始平等社会」の基本原理とも言うべき、公平な神界を構成していたのである。」 (『日本神道の謎』 佐治芳彦著)



さて、縄文人の宗教観を見て頂きました。ここに示されている通り、縄文時代の日本では、すべてを分かち合いの原理で賄う「原始平等社会」が実現していたのです。これは、現在までに残る縄文遺跡を調べてみても、まったく貧富の差が見られないことでも証明されています。この平等社会を実現させていた縄文人の宗教観が、それぞれの神々に貴賎がない「アニミズム信仰」だったのです。

             
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                                  (『東日流外三群誌』 佐治芳彦著)

上の表は、縄文系先住民であるアイヌ民族とつながりの深い「荒吐アラハバキ)族」の神界モデルです。(ちなみに、背景に写っているのは、縄文遺跡のストーンサークル(環状列石)です。)

創造主から分かれた2柱の神として、父なる神・荒吐が「日の神(太陽神)」であり、母なる神・津保化が「地の神」とされています。すなわち、それぞれ天と地を表し、さらにこの2柱の神は「対立関係」ではなく、「相補関係」にあったとされています。(ちなみに創造主、峻厳の神(男性性)、慈悲の神(女性性)の3柱で、三位一体となります。)

この2柱の神の下に、各精霊神が連なっているわけですが、これらの神々に身分制や階級序列などはなかったと言います。この神々の平等観が、縄文社会の根底を成す「原始平等主義」を築き上げていたのです。

現代の社会は、一応建前上では、人類平等を謳う「民主主義」ということになっています。しかし、これは美名に彩られただけの虚構であることは、今では誰もが知っていることです。(人類平等なのであれば、なぜ戸籍登録を免除され、法で裁くことができない「特権階級」と呼ばれる人たちが存在しているのでしょうか?)

縄文時代の日本では、例えば収穫された作物などを一旦まとめて、均等に村の民衆に配分していました。(今で言えば、政府が国民に対して、生活する上での最低限のお金を毎月支払うという「ベーシックインカム」のようなものかもしれません。)

家の大きさなどもほぼ同じでした。もちろん、人々の間に肩書きや階級序列などという「まやかし」も存在しませんでした。このため、争いも戦争も全く起こらない、完全なるユートピアが実現していたのです。(もちろん、これらの真実が学校で教えられることはありません。)

弥生時代に入りますと、中国大陸から長江文明の末裔や、漢王朝の末裔たちが入植してきます。特に漢王朝の末裔たちは、平和を好む縄文人に対して、陰謀と争いを好む、極めて好戦的な人々であったと推測されます。(つまり、恐怖心と猜疑心が強い人々だったということです。)

このため、当時の日本が大混乱に陥り、「倭国大乱」という内戦が勃発することになります。大陸から「私権社会」が持ち込まれたことも大きな原因だったのでしょう。

「私権社会」の本質とは、例えば土地は誰のもの、家は誰のもの決められてしまう社会のことです。階級が上位の人たちに逆らうことは許されません。当然、血みどろの奪い合いが発生することになります。本来、この地球上に存在するものは誰のものでもありません。全ては神のものです。


「改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、草の葉一枚でも神のものぞ。」 (『日月神示』下つ巻 第24帖)


            
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縄文人の間には、「所有」という概念は存在しなかったのです。さらに、縄文時代の日本では、人口の増減もなく、ほぼ一定に保たれていたと言われています。なぜでしょうか?これは、縄文人の価値観が「宇宙の法則」と調和していたからなのです。

現在の地球上では、言うまでもなく人口爆発が起こっています。これは、人類が「宇宙の法則」を無視した、誤った価値観を身に付けてしまったからに他なりません。では、宇宙(自然界)と調和がとれていた縄文時代と比較し、現代社会では何が変わってしまったのでしょうか?次に検証してみたいと思います。


【「原始平等社会」から「私権社会」への移行】
⇒ これは先ほど観てきた通りです。私権社会が持ち込まれた結果、生じてしまった貧富の差と、動植物まで含めたあらゆる生命間における貴賎意識が、「奪い合いの心」と「差別心」と「エゴの心」を生み出しました。

【「母系社会」から「父系社会」への移行】
縄文時代の日本では、女性的な価値観を中心とした「母系社会」でした。母系社会の最後のなごりとして、弥生時代の後半に現れた卑弥呼の存在が挙げられます。

この調和が取れていた社会の中に、無理やり男系と序列を重んじる「儒教」と、無茶苦茶な「神話操作」による人々への洗脳によって、「父系社会」が持ち込まれたのです。現在に至るまで、「男尊女卑の価値観」が人の心に根強く染み付いているのはこのためです。なお、沖縄の久高島では、現在でも巫女さんを中心とした「母系社会」が続いています。
自然界を観て下さい。「母系社会」こそが、宇宙の本来あるべき形なのです。

【「一元論」から「二元論」への移行】
⇒ 「一元論」とは、善悪を超越した”二元性が統合された価値観”のことです。縄文時代多神教には、善神・悪神などという「善悪二元論」的な価値観は存在していませんでした。弥生時代以降、節分の「豆まき」に見られるような、「悪い奴は退治すればいい」という勧善懲悪的な価値観が発生したのです。分離と対立に基づくこの思想が、極めて危険な思想であるということは言うまでもありません。

縄文時代アニミズムでは、自分とは異なる価値観を受け入れることができる大らかさと、自然界・動植物まで含めた「すべての命の平等性」が根付いていたのです。


【「霊主体従」から「体主霊従」への移行】
⇒ 「霊主体従」とは、物質よりも神を中心とした霊性を重んじる価値観のことです。一方、「体主霊従」とは、霊性よりも物質を重んじる価値観のことです。宇宙の法則では、言うまでもなく「霊主体従」が中心となります。


この他、「性」に関する事柄をタブー視させることによって、人々の間に「羞恥心」と「罪悪感」を植え付けられたことも、大きな誤りだったと思います。(縄文の頃は、「性とは聖なるもの」という認識でした。男女の統合によって、ひとつの小宇宙を創造しているわけですから、当然ですよね。)
(千賀氏の著作『タオ・コード』参照のこと)

有史以来、我々人類が大混乱に陥ってきたのは、「宇宙の法則」を無視し、勘違いしてしまった愚かな人類に原因があります。一人でも多くの人がエゴを手放し、現在の「私権社会」から、すべてを均等に分かち合える「公けの社会」に向けて、目覚めて欲しいと切に願っています。
 
 

以上転載終わり
 
>>縄文時代には秘密がいっぱいあると思われます。
学校では、縄文時代のことはすこししか教えませんし、事実は教えません。
今の日本史の教科書には弥生時代からしか乗っていないと聞きます。
子供さんがおられる方は確認してみてください。
 
今は、ずいぶんと研究が進み、ベールに包まれていた縄文時代の事実が徐々にわかってきているはずです。
調べれば、出てきますよ。
日本史として見るのではなく、世界史、地球史として見るべき歴史だと思います。 (^^)
日本とはなんと素晴らしいのかがわかるのではないかと思います。
日本のこの事実を隠ぺいしたいし、抹殺したい勢力が今の寡頭勢力です。