転載記事 6月2日は本能寺の変
以下転載
6月2日といえば、天正10(1582)年、いまから431年前に「本能寺の変」があった日です。
明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞で、歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。
この本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わります。
そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移りました。
そこで今日は、その本能寺の変について書いてみたいと思います。
明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞で、歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。
この本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わります。
そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移りました。
そこで今日は、その本能寺の変について書いてみたいと思います。
本能寺の変で信長は亡くなったとされているのですが、不思議なことに信長の遺体はあがっていません。
本能寺そのものは、事変のときに火災で焼け落ちていますが、普通、木造家屋の火災程度では遺体が残るはずで、それがないというのは、すこしおかしな話です。
なかには信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、地下に織田軍団の保有する火薬が大量に保管され、事変のときにこれが大爆発を起こしたからだ、という説もあります。
当日巨大な火柱が本能寺方面からあがったのを見た、という記録があるからだ、というのがその論拠のようですが、どうもしっくりきません。
というのは、火薬が爆発したのなら、火柱もさりながら、大音響を伴ったはずで、その「音」に関する記述がどこにもないからです。
そういう説ならむしろ、遺体はほぼ特定されたけれど、あまりに痛ましい焼死体であったために、あえて「燃え尽きて、なくなっていた」ことにしておいた、という解釈の方が、なんだかしっくりくるように思えます。
歴史を調べるときに、文献記録というのは、とても重要な史料です。
ただし、日本の、とりわけ武家社会というのは、いわゆる「タテマエ社会」で、実際にあったことよりも、タテマエとして「こうだったことにしておこう」ということが優先された、そういう社会であったということを十分に理解しておく必要があります。
西洋においては、文献は当時の模様を事細かに微に入り細にわたり描写するのが特徴です。
これは歴史史料に限らず、絵画や彫刻、文学なども同じで、油絵の具を何度も何度も重ね塗りして、できるだけリアルに仕上げようとする、あるいは風景描写などを、小説の中で事細かにしていく。
とりわけロシア文学などは、冒頭の風景描写だけで数ページ続くなんてことがよくあります。
これに対し日本の古典は、史書も文学も絵画も芸能も、すべて引き算です。
できるだけ短い言葉にして、あとは読み手の想像力に委ねる。
これは、読み手、受け手の側に、一定の教養と知性を求めますが、その代わり想像力が刺激される分、言葉は短いけれど、含蓄のあるより大きな情報を伝えます。
ですから日本では、そもそもそういう文自体に引き算という特徴があることに加え、武家の記録は常に「タテマエ」が優先するわけですから、単に書いてあるか書いてないかだけで当時あったじっさいの出来事がかならずしもその通りには書かれていないということが往々にしてあります。
戦後の日本の歴史学会は、唯物史観で、常に物証を求めますが、その姿勢は、歴史を恣意的に解釈するお隣の国のみっともない姿からすれば、とても冷静で大切なことではあるけれど、それだけでは日本の本当の歴史は見えてきません。
というよりも、歴史を調べることを生業とする歴史学者にとっては、歴史は史料の発掘や研究になるのであろうと思いますが、一般人である我々が歴史を学ぶ際にたいせつなことは、常々申上げているとおり、「そこから何を学ぶか」ということなのだろうと思います。
さて、では、信長はどうなってしまったのでしょうか。
これについて、おもしろい見解があります。
信長は生きていた、というのです。
生きて、どうなったかは不明です。
当時は東南アジア諸国との交流が活発でしたので、海外でのんびりと余勢を過ごされたのかもしれませんし、もしかすると、そうなろうとして、途中の海でシケに遭って亡くなられたかもしれない。
あるいは仏教に帰依して、僧侶となって余勢を送ったかもしれません。
当時は、出家して坊さんになることは、現世における死を意味したからです。
ただ、ひとついえそうなのは、太平の世を築くという目的のためには、そこで信長が死ぬことは、あまりにもタイミングが良すぎる、ということです。
つまり、本能寺の変は、信長が光秀に討たれたのではなくて、逆に信長が光秀に命じた、実は大芝居だったというのです。
このお話は、その前提となる流れの話が必要です。
それは仏教の話です。
6世紀の仏教伝来以来、16世紀終わりごろの秀吉の「刀狩り」の時代まで、約千年間の長きにわたって、実は仏教勢力は、たいへんな武装政治勢力でした。
これはいまで言ったら、某巨大新興宗教団体が、独自に自衛隊、というより軍や兵器を持っているような者です。
その武装政治勢力が、年中、神輿を繰り出しては、朝廷を脅迫していたのです。
「平家物語」の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)」の3つは「天下三大不如意」でどうにも手がつけられないと嘆いたことが書かれています。
本能寺そのものは、事変のときに火災で焼け落ちていますが、普通、木造家屋の火災程度では遺体が残るはずで、それがないというのは、すこしおかしな話です。
なかには信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、地下に織田軍団の保有する火薬が大量に保管され、事変のときにこれが大爆発を起こしたからだ、という説もあります。
当日巨大な火柱が本能寺方面からあがったのを見た、という記録があるからだ、というのがその論拠のようですが、どうもしっくりきません。
というのは、火薬が爆発したのなら、火柱もさりながら、大音響を伴ったはずで、その「音」に関する記述がどこにもないからです。
そういう説ならむしろ、遺体はほぼ特定されたけれど、あまりに痛ましい焼死体であったために、あえて「燃え尽きて、なくなっていた」ことにしておいた、という解釈の方が、なんだかしっくりくるように思えます。
歴史を調べるときに、文献記録というのは、とても重要な史料です。
ただし、日本の、とりわけ武家社会というのは、いわゆる「タテマエ社会」で、実際にあったことよりも、タテマエとして「こうだったことにしておこう」ということが優先された、そういう社会であったということを十分に理解しておく必要があります。
西洋においては、文献は当時の模様を事細かに微に入り細にわたり描写するのが特徴です。
これは歴史史料に限らず、絵画や彫刻、文学なども同じで、油絵の具を何度も何度も重ね塗りして、できるだけリアルに仕上げようとする、あるいは風景描写などを、小説の中で事細かにしていく。
とりわけロシア文学などは、冒頭の風景描写だけで数ページ続くなんてことがよくあります。
これに対し日本の古典は、史書も文学も絵画も芸能も、すべて引き算です。
できるだけ短い言葉にして、あとは読み手の想像力に委ねる。
これは、読み手、受け手の側に、一定の教養と知性を求めますが、その代わり想像力が刺激される分、言葉は短いけれど、含蓄のあるより大きな情報を伝えます。
ですから日本では、そもそもそういう文自体に引き算という特徴があることに加え、武家の記録は常に「タテマエ」が優先するわけですから、単に書いてあるか書いてないかだけで当時あったじっさいの出来事がかならずしもその通りには書かれていないということが往々にしてあります。
戦後の日本の歴史学会は、唯物史観で、常に物証を求めますが、その姿勢は、歴史を恣意的に解釈するお隣の国のみっともない姿からすれば、とても冷静で大切なことではあるけれど、それだけでは日本の本当の歴史は見えてきません。
というよりも、歴史を調べることを生業とする歴史学者にとっては、歴史は史料の発掘や研究になるのであろうと思いますが、一般人である我々が歴史を学ぶ際にたいせつなことは、常々申上げているとおり、「そこから何を学ぶか」ということなのだろうと思います。
さて、では、信長はどうなってしまったのでしょうか。
これについて、おもしろい見解があります。
信長は生きていた、というのです。
生きて、どうなったかは不明です。
当時は東南アジア諸国との交流が活発でしたので、海外でのんびりと余勢を過ごされたのかもしれませんし、もしかすると、そうなろうとして、途中の海でシケに遭って亡くなられたかもしれない。
あるいは仏教に帰依して、僧侶となって余勢を送ったかもしれません。
当時は、出家して坊さんになることは、現世における死を意味したからです。
ただ、ひとついえそうなのは、太平の世を築くという目的のためには、そこで信長が死ぬことは、あまりにもタイミングが良すぎる、ということです。
つまり、本能寺の変は、信長が光秀に討たれたのではなくて、逆に信長が光秀に命じた、実は大芝居だったというのです。
このお話は、その前提となる流れの話が必要です。
それは仏教の話です。
6世紀の仏教伝来以来、16世紀終わりごろの秀吉の「刀狩り」の時代まで、約千年間の長きにわたって、実は仏教勢力は、たいへんな武装政治勢力でした。
これはいまで言ったら、某巨大新興宗教団体が、独自に自衛隊、というより軍や兵器を持っているような者です。
その武装政治勢力が、年中、神輿を繰り出しては、朝廷を脅迫していたのです。
「平家物語」の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)」の3つは「天下三大不如意」でどうにも手がつけられないと嘆いたことが書かれています。
つづきは元記事で
ねずさんのひとりごこ